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2009/11/10

高津戸城(みどり市大間々町高津戸)

091109c 最初の写真は、わたらせ渓谷鉄道の大間々駅から高津戸城のある要害山を見たところです。ちょうど桐生行きの列車がホームに入るところでした。
 要害山に向って最も左(北)に本丸、写真中央部分が二の丸、右のやや低くなった部分が三の丸で、現在三の丸には駐車場と展望台が建てられています。写真手前側の要害山斜面は断崖になっていて、更に手前には渡良瀬川が高津戸峡と呼ばれる谷を形成し、天然の要塞となっています。
091109d 二の丸から三の丸方向へ振り返ったところです。写真からも急峻な城の造りが見てとれると思います。
091109e 二の丸から見た要害山の斜面です。写真右上が本丸です。
091109f 本丸跡に建立された要害神社です。

訪問日:平成21年11月9日

要害山神社と高津戸城の由来
 高津戸城は堀河天皇の御代、寛治年中(1080年)頃、山田七郎平吉之が創立した。その後、十代目の則之は桐生国綱によって滅ぼされた。正平六年(1351年)六月のことである。
 里見家の七代義連の三男氏連が仁田山八郷(高津戸,須木,東,西,小倉,上,中,下,仁田山,名久木をいう)に入ったのは建徳二年(1371年)で国綱の娘が氏連の正室となりその縁で仁田山八郷を国綱からまかされた。
 仁田山城は以前は山田氏の居城であった。また、氏連より四代後の宗連は越後の上杉謙信に攻められ自刃した。天成二年(1574年)九月のことである。
 房州の里見実堯(勝弘)は仁田山に住む一族の宗連の許に身を寄せていたが宗連の没後桐生に移って桐生氏の客分となるが、実堯は二子勝政と勝安を上杉謙信に託した。ところがこれが桐生親綱に誤解され、元亀元年(1570年)三月二十日に詰め腹を切らされた。
 越後の上杉謙信の元にいた兄弟は親の仇を打ちたいと天正四年十月(1576年)に高津戸城に隠れ、その翌年五月二日、用明の砦を襲ったが念願果せず由良国繁の怒りを受けて天正六年九月十八日無念の涙を流して討死にした。里見随見勝政二十八才、弟の勝安二十五才の若さであった。兄弟の墓や山田氏の墓は要害山のふもと阿弥陀堂に静かに眠っている。
 要害神社はその昔、金比羅宮と呼ばれ、自音寺第七世の住職高海上人が四国の金比羅宮に参籠していた時、不思議にも夢中に金比羅神王の尊容を拝した。
 また、要害山の山姿が象頭山に似ていることからこの地に祠を建立して神王を奉安した。
 この金比羅宮(現在要害神社)は霊験あらたかで近郷近在の老若男女の参拝者でにぎわったと文政五年の自音寺の古記録にのこされている。
  昭和五十六年四月十九日
要害神社氏子一同
※仁田山城
 石尊山(桐生市川内町五丁目)にあった山城。

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