文学・歴史の20(文化財等)

2017/02/18

旧時報鐘楼

170218 所在地:群馬県伊勢崎市曲輪町28-23
 市指定重要文化財(平成5年3月23日指定)

撮影日:平成29年2月18日(iPhone6s)

2017/01/22

旧谷中村延命院の半鐘

170121a1 所在地:栃木県栃木市藤岡町内野 旧谷中村延命院跡(渡良瀬遊水地内)
170121a2 旧谷中村の延命院跡に建つ半鐘です。

撮影日:平成29年1月21日(Nikon Df Macro60mm)

2009/12/29

C61運転室

 あらためてC61形蒸気機関車の運転室を写真におさめてきました。
091221a■左側扉から見た運転室です。
091221b■運転室中央の石炭を投入する扉です。
 この形の蒸気機関車では、石炭を自動的に投入する装置が付いたとも聞きました。
091221c■右側扉から見た運転室です。
091221d■機関車を右前方から見たところです。
091221e■機関車の左側です。
 大きな動輪が3っつ。だから61。因みに、動輪が2つなら、4っつなら。B・C・Dは動輪の数からきているのです。
091221f■おしり

撮影日:平成21年12月21日

2009/12/19

C61形蒸気機関車

C6120 先日新聞で、伊勢崎市華蔵寺(けぞうじ)公園遊園地内に展示保存されているC61形蒸気機関車をリペアし、平成22年春から群馬県内で営業運転を行うとの記事がでていました。
 読売新聞では、華蔵寺公園に展示中、運転室内に入って見られるとの事で、早速行ってみました。しかし、運転室に入れるのは12月19日~1月6日。結局、外観の写真を撮って帰ってきました。(よく記事を読めよ → 俺)
 朝日新聞よれば、復元費用は約3億円。そんなにお金かけて大丈夫なのかしら。

 JR東日本の資料

撮影日:平成21年12月14日

 C.6120蒸気機関車について
 蒸気機関車C.61は、D51のボイラーとC57の走行部分を取り入れ改良されたものであり、その雄姿とけん引力の強さから蒸気機関車のプリンスとして親しまれてきました。
 この蒸気機関車C.6120は、昭和24年に製造され、東北本線・奥羽本線の旅客輸送に活躍しましたが晩年は南九州でその使命を全うし生涯を閉じました。走行キロ数は、約287万キロに達しており地球を71回廻ったことになります。多くの人々に、ありし日のC61を観覧いただくため、国鉄の好意でこの場に設置し後世に保存しようとするものです。
 経歴
製造年月日 昭和24年 8月 1日
製 造 所 名三菱重工三原製作所
配属機関区昭和24年 8月30日 青森機関区
昭和25年 1月18日 仙台機関区
昭和41年12月14日 青森機関区
昭和46年 9月19日 宮崎機関区
昭和48年 8月28日 廃車
走行キロ数2,869,889Km
公園内案内板より

2009/07/07

郡界の滝

090706a
090706b
 この滝は国道122号からわずか30m位しか離れていないのに、殆んど知られていない滝です。落差8mくらいはあります。場所は大間々警察署から122号を足尾方面に向かって500m程行った左側の水路の奥です。
 写真を良く見ると判るのですが、この滝は太い水路から流れ落ちています。色々調べた結果、昭和33年着工された「大間々用水土地改良事業」による水路で、深沢川(梨木温泉の前を流れる川)の取水口から地下水路を通りこの場所で一旦地上に出て、30m先でまた地下水路に入り、大間々・笠懸・新里地区の農地を潤しているようです。
 赤城南麓は昔から水欠乏地帯で、古くは女堀・岡登用水などによる農地への水の補給が行われ(試みられ)ていました。この用水も、更なる水の補給が目的です。

【なぜ「郡界」?】
 滝のある所は、「大間々」と「神梅」の間になりますが、両方とも旧大間々町です。では、なぜ?
 市町村変遷パラパラ地図 を参考にさせて頂くと、神梅地区は昭和33年2月まで旧黒保根村だった事が分かりました。それで、大間々町=山田郡、黒保根村=勢多郡ということで「郡界」になるわけです。あースッキリした。
 大間々用水土地改良事業区さんのページがありましたのでご紹介します。
訪問日:平成21年7月6日

2009/04/14

菅塩地区の石切場跡

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 桜で有名な菅塩沼ですが、今回は既に花筏になっていました。それで、沼の畔にあった案内板に書かれていた石切場2ヶ所を訪れてみる事にしました。
 石切場は、菅塩沼の脇の登山口から、山を越えて北金井地区へ至る遊歩道の途中にあります。しかしこの遊歩道、全体がコンクリートと階段で出来ています。これ、結構歩き難いんです。路面に砂とかがあると滑るし。
 さて石切場ですが、石切場1の方は長い階段を登り、最後の胸突八丁的な階段を登り終えると正面に最初の写真の石切場があります。10m手前を右に少し入っても小規模な石切場があります。
 石切場2は、遊歩道の脇に小規模な石切場もありますが、その手前を回り込むように入ると2番目の写真の石切場があります。石切場1,石切場2共に藪塚の石切場から見ると、たいへん小規模です。
訪問日:平成21年4月13日

2009/03/31

板倉町の枝垂桜

090330■シダレザクラ(枝垂桜)
 東武板倉東洋大前駅の近くの海老瀬頼母子にある薬師堂に咲くシダレザクラです。
 この桜は、弘法大師がさした杖が根を生やしたものと言う伝説があり、板倉町指定の天然記念物になっています。
 この辺り出身の同僚に聞くと、夜の方がライトアップされて綺麗だそうです。
 なお、この桜は「ウバヒガン」の変種との事です。

撮影日:平成21年3月30日

2009/01/24

旧第一勧業銀行桐生支店

Daiichikangins 旧第一勧業銀行桐生支店の写真のテレホンカードです。
 私が高校生の始め頃は未だこの建物は残っていましたが、後に取り壊されて新しい建物になりました。場所は桐生市本町5丁目の交差点の角でした。
 このカードは、今から15年以上前にこの建物を建てた建設会社の桐生支店長様からいただいたものです。
(因みに、私が今勤務しているビルもこの建設会社が建てました。)Dkbank


 旧第一勧業銀行桐生支店についてネットで調べたところ、お隣みどり市のホームページに、この建物の設計者小林力雄のコラムがありました。

2013/06/15
 みどり市の小林力雄のコラムは削除されていました。

2008/10/27

渡良瀬紅葉

 今日は、渡良瀬川沿いがどの程度紅葉しているのかを確かめに、草木ダムの少し下流を歩いてきました。
 おまけとして、旧国鉄足尾線の草木ダム付替え区間の情報もレポートします。
081027a 草木ダムから500m程下流の萬年橋から上流(草木ダム方面)を見たところです。
081027b 萬年橋のすぐ西隣には、旧国鉄足尾線の琴平隧道があります。
 現在のわたらせ渓谷鐵道は、草木ダムの西側の山を貫いた草木トンネルを通り、沢入(そうり)駅へと向かっています。
081027c
 トンネルを抜けると、線路跡が遊歩道として草木ダム方面に続いています。
081027d 旧国鉄足尾線は、神戸(ごうど)駅から渡良瀬川西岸を北上し、ちょうどダムの壁面あたりで対岸に渡り、現在の草木橋東詰の下に水没した草木駅に続いていたようです。
081027e 草木ダムと琴平隧道の中間地点あたりに、わらべ橋という歩行者専用の橋があります。(1枚目の写真に写っている橋)その上から撮影した草木ダムです。ダム上部の右端の建物は草木ダム管理事務所です。

訪問日:平成20年10月27日

2007/10/14

藪塚石切り場跡

 藪塚石の石切り場跡は、藪塚温泉(現在群馬県太田市)の北方約500mにあり、かつては「大谷石」に似た「藪塚石」を産出していました。

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 場所は少し分かり難いので、「北山古墳」の道標を頼りにすれば迷わず行けるでしょう。石切り場跡の入口は、北山古墳から東へ100m程の所にあります。石切り場の歴史については、文末の案内板の内容を参照してください。

◆回想◆
 今から40年ほど前、当時小学2年生だった私は、祖母とその仲間達の日帰り温泉旅行に連れられ、藪塚温泉に来たのでした。当時の祖母達にとっては、一大イベントだったのに違いありません。その旅行に私と同様に、近所の中学生のお兄ちゃんも連れられて来ていました。
 婆ちゃん達は楽しくて仕方ないでしょうが、私たち子供がじっとしていられる訳がありません。そこで、お兄ちゃんと私は温泉宿の周りを探検する事にしました。
 温泉から北へ山沿いに歩くと、河童が出そうな池の横を通り石切り場跡へ着きました。その後、石切り場からどこをどう歩いたのか分かりませんが、八王子丘陵(当時私の家のあたりでは「藪塚山」と呼んでいました。)の登山となり、ついには桐生市広沢町の広沢小学校のあたりに辿り着きました。山越えをしてしまった訳です。
 そこから藪塚温泉へ帰るにはどう歩けば良いのか?もう夕暮れ時です。たまたま田圃で働いているおじさんがいたので、籾山峠を越えて帰る道を教えてもらい、とぼとぼと歩いて温泉宿まで帰ったのでした。(道を聞いたおじさんが働いていたのは、今思えば桐生市の斎場の西あたりだったと思います。)
 桐生から藪塚温泉までどれくらい時間が掛かったかは分かりませんが、帰り着いた時にはあたりは真っ暗だったと思います。温泉宿(たぶん現在の「ホテルふせじま」だったと思います。)に着くと、私達が行方不明になった!と、大騒ぎになっていました。でも、宿の方に温泉に入れてもらい、タクシー(ハイヤーと呼んでいたかも知れない。)に乗せられ、帰宅したのでした。
 私達が帰宅しても、婆ちゃんたちは帰っていなかったので、たぶん警察に行っていたのでしょう。
 私の登山歴はこんな事件から始まりました。

[ 石切り場 ]
 今から凡そ二千万年位前に多くの火山活動によって堆積された軽石凝灰岩が地殻の変動で隆起し各地に露出して藪塚石となった。この藪塚石は明治の中頃から小規模に採掘をしていたが、明治三十六年に藪塚石材株式会社が創立され盛んになり始めた。質はやわらかく細工がしやすく価格も安かったので建築物の土台や塀、熱に極めて強かったのでカマドとして発売された。大正二年に東武鉄道が布設されると、販路も関東諸府県から長野県に至るまで藪塚石の名は広まった。当時労務者は三百五十人位であった。しかし藪塚石の最大の欠点は水に弱く、中に石がある事、層に割れ目が多い事などで、同質の大谷石と比べて多くの人件費がかかった。質に於いてだんだん嫌われいった。そして現在各所にこの様な大きい採掘跡を残して昭和三十年頃閉山のやむなきに至ったのである。
 (案内板より転載)
訪問日:平成19年10月14日